ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

masters2019

28会報 <日本マスターズ柔道> 2019年1月9日マスターズ柔道が私の生きがいになった東京都 鈴木 淳(M3・73㎏)松山大会_ 個人戦今年の愛媛県松山大会は、マスターズ5回出場表彰とM3・73 ㎏での久しぶりの個人優勝と思い出深い大会になりました。思えばマスターズについては20代の頃、町道場の先生方に、大先輩方のトーナメント戦で日本一、世界一を決めるマスターズという大会があると聞いた事がありましたが、当時はそれについてそれ以上は知りませんでしたし、自分には遠い話で興味がなかったとも言えます。また当時は今と違い、インターネットこそありましたが、マスターズ大会自体には全柔連もIJFもまだ積極的に関わっておらず、情報自体がほとんどなかったと記憶しております。それから時間が経ち、歳を重ねて30代になる頃には、あんなに一生懸命稽古をしていても、もう出る大会が1試合のみの高段者大会くらいしかなくなってしまうことに、少し物足りなさを感じていました。嬉野大会 団体戦30代前半になったある日、私は千代田区スポーツセンターで、吉成先生から大会の詳細を教えてもらいエントリーすることになりました。まさか30代から参加できる大会とは思っていなかったので意外でしたが。そして初めて参加したのが、2011年千葉県勝浦市で開催の大会で、M1・73㎏でのエントリーでした。その時は自費で遠方まで赴いて試合に出る事に違和感があった事と、どんな大会かよく分かっていなかったので、慌てて当時販売されたばかりのIJF公認の柔道着を試合用としてゼッケン付きで購入し、会場入りしたのを覚えております。リック リトルウッド氏の逝去を悼む埼玉県 勝呂 孝去る2018年7月24日、『マスターズ柔道協会N Z 理事のリック氏が急逝した』とオークランドから連絡が入った。当日朝、起床したとき頭痛を訴え、そのままその日のうちに亡くなったそうである。突然の思いもかけない出来事であり、NZ柔道界全体に衝撃が走ったという。日本人の奥様、ゆみこ様も『全く突然のことでどうしてよいのか判らない』と混乱しながらメールを寄越された。リック氏は1972年ミュンヘンオリンピックのNZ柔道選手、オークランドの自宅に道場を開き、多数の門弟を育てた。多くの関係者が葬儀に訪れ、外国からも多くの弔文が届けられたと言う。思えばこの人らしい豪快な最期でもあった。享年77歳(私と同じ)。リック氏とは今から40年ほども昔、私がまだ若手航海士の時代にNZとの共同調査で何度かオークランに入港した際に知り合った。市内にはいくつかの柔道クラブがあり、互いに張り合っていた。当時、私は船内の柔道経験者を連れて外国寄港先で柔道クラブを訪問するのを常としていた。まだ、東京オリンピックの余韻が残り、日本柔道の人気が高かった頃である。行った先々で練習稽古をし、どこでも歓迎された。「港々に女あり」、ではなく「港々に柔道場あり」、の時代であった。その当時の門弟たちに時を隔てて講道館で再会し、互いにその偶然を喜び合ったこともある。リック氏は同市のメインストリートの一角に武道具店を開き、その横に「たぬき」と称する純日本風居酒屋3軒を経営していた。門弟たちも稽古終了後そちらで一杯やった後に帰宅する。車で帰るのに危険でないのか、と思うがこちらの交通規制は日本よりずっと緩いそうだ。「たぬき」は日本語も通じてとても繁盛していた。韓国や中国人の経営するあやしげなラーメン店や寿司屋が点在する中で、ここだけは日本人の心安らぐ店であった。そのほか彼は市内に何軒かビルも所有しており、なかなかのやり手であった。ちなみに、NZでは人手が少なく仕事を複数持つのは珍しくない。仕事柄、大阪にはご夫婦で年中行き来していた。離婚の多い同国では仲の良いカップルとして人目を引いていた。全国高段者大会にはNZチームを率いて毎回参加していた。また、マスターズ大会にも国内、海外を問わず出席していた。会場で会うと、「オー センチョウ!」と先に声をかけてくれるのはリック氏のほうであった。また、宴会の席上チーム一同でマオリ族戦士のダンスを披露してくれたのも楽しい思い出である。葬儀ののち、彼の道場は8月1日から稽古を再開したそうである。後任はロブ・レビー氏。 門弟同士で結婚した日本女性も何人か。彼らとも従来通りのマスターズの関係を続けて行きたいと願う。リック氏は根っからの柔道愛好者であった。棺には、柔道着を着て横たわり、あの世へ旅立ったという。遥かにご逝去を悼み、南冥の空に向かってご冥福を祈りたい。合 掌(写真は2017年3月リック氏の道場にて)