ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play

概要

masters2019

26会報 <日本マスターズ柔道> 2019年1月9日光を楽しむ事が出来ました。この後、フェリーで広島に渡り、原爆ドームを見学したり、お好み焼きを食べたりしました。。小学3年生から柔道を始め、50年以上経ちました。指導者として、「札幌市手稲柔道少年団」を創立してからは33年経ちました。まだまだ修行中で、今でも柔道の奥の深さを認識する毎日です。札幌に戻り、次回開催の福井市の大会に向けて道場の子供たちと日々、稽古に汗を流しています。・・・・・頑張るぞ・・・・・仏弟子になり、結果にこだわらない心境に!奈良県 田房 豊彦(M9・66㎏) 小学校5年生で柔道を始めた私は、19歳の時、東京オリンピック柔道軽量級での中谷雄英選手の活躍に興奮し、「次のオリンピックの軽量級は自分が活躍するぞ」と、会社の柔道部での練習に気合いが入りました。 身体の小さかった私は、練習中に無理な技をかけて右肩を脱臼しましたが、「こんな負傷に負けてたまるか」と激しい練習を続けました。それが原因で習慣性の脱臼になり、相手と組み合おうと腕を前に出すだけで、右肩を脱臼するようになり、選手生命が断たれました。 「柔道がやりたくて会社に入ったのに、なんということだ」と元気のない毎日を過ごしていた時、脱臼や骨折を治す専門学校があることを柔道部の先輩から聞きました。 会社を辞め専門学校に入学しました。脱臼・骨折の治療方法を学んだことで、専門学校の柔道部での練習では右肩を脱臼することはありませんでした。専門学校を卒業する頃には、右肩周りの筋肉をさらに強化する必要性を強く感じ、今度は体育大学で学ぶことにしました。 体育大学に入学した時は32歳でしたが、柔道部員として若い部員に交じって練習に汗を流しながら、学業に取り組むことができました。 大学を卒業後、大学院に進み柔道を続けました。40歳になり、体育大学の非常勤講師として学生の柔道指導に取り組みました。50歳で大学の講師を辞め、大阪府柔道整復師会の柔道部員になりました。関西実業団では50歳代の部の選手として試合に出場するようになりました。 そんな時、私の心境に大きな変化がありました。それは私がホノルルマラソンで柔道着を着て走ったことを知った柔道の大先輩に、ある方を紹介されたことから始まりました。 「おまえと同じように柔道着でマラソンを走っている住職が奈良におるから紹介しよ」と、有名なお寺の住職さんを紹介されました。 その住職さんは、会うなり私に「柔道の弟子にしてください」と言われました。私はその言葉を真摯に受け止め、住職さんを柔道の弟子にしました。そして私の柔道場から畳8枚を運び込み、お寺の境内に柔道場を作りました。そこで住職さんに柔道の指導をする代わりに、私は住職さんの仏弟子にしていただきました。お互いに弟子になり合って、静かに自分の心を見つめるうちに、結果にこだわらない心を育てることができました。 年齢を重ねるごとに充実感が増していきました。しかし60代後半になり、いよいよ人生下り坂かと感じ始めた頃、マスターズ柔道大会を知りました。 そこには60歳でも70歳でも試合に臨み、さらなる高みを目指し全力でぶつかり合う元気な人たちがいました。健康寿命日本一を目指し、健康増進対策に取り組んでいる私は、このマスターズ柔道大会が健康寿命向上の具体的な実践の場だと捉えました。 第12回大会の9月20日は父の誕生日でしたが、結果にこだわらず試合に臨むことができました。70 歳を過ぎても試合に打ち込める素晴らしさ・喜びを噛みしめています。これからも体力の続く限り、マスターズ柔道大会に出場したいです。 大会を運営される協会関係者の皆様に心より感謝申しあげます。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。10回出場表彰を受け、マスターズ大会を振り返って!千葉県 平野 健太郎(M6・73㎏)第9回山口大会(M 5・66㎏級、金メダル・M 5・無差別級、銅メダル) 私がマスターズ大会に初めて出場したのは、今から10年前の第5回秋田大会でした。その数年前から同じ道場(木更津柔道会)で一緒に稽古をしている鈴木治雄先生や石邑勇先生(二人共、第1回大会から出場)から「マスターズ大会に参加しないか?」と誘われていましたが、40歳を過ぎてから再び柔道を始めた私は、まだまだ柔道の試合ができる身体ではありませんでした。 45歳を過ぎた頃、やっと体もしぼれ、動きも良くなり、柔道の試合がしたくなり、第5回秋