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概要

masters2019

24会報 <日本マスターズ柔道> 2019年1月9日していただき快く道場を御貸していただいたのが、現在私が所属するスポーツクラブTRYの中川隆師範でした。 実際に道着に袖を通すのも二十七年ぶりという事もあり、体も動かず受け身もままならない酷いあり様でしたが、久々に道着を着て汗を流すのが楽しく、恐ろしいОB会がその後も続く事になりました。 その後、練習だけでは飽き足らず、大会に出たいという流れになり、地元の市長杯団体戦に出場し、平成の高校生と対戦し、全員一本負けという当然の結果でした。そこから一念発起し現在に至るわけですが、気が付けば同年代の柔道家が多く存在し、お互いに刺激し合いながら交流を深めております。 マスターズ柔道大会出場も同年代で活躍されている諸先輩方の勧めもあり出場していますが、実際に自分の親の世代の方々も活躍されている姿に大きな感銘を受け、今では自分の母親を帯同し、元気な同年代の方々の姿を拝見させていただいていますが、とても良い刺激になっているそうで楽しみにしているようです。 今後競技人口も減少の一途ですが、我々中高年柔道家が元気な姿を見せ、良い意味で青少年に刺激を与える事が出来る様に努めて行くべきではないでしょうか?6回出場を達成し、1年の生活の目標に!三重県 荘司 裕(M7・66㎏)私は、昭和49年に開催された東京オリンピックに刺激を受けてスポーツに目覚め、「柔」や「柔道一直線」など、テレビドラマの影響を受け、中学校入学と同時に柔道部の門を叩きました。柔道と出会って51年、これ程までに永く柔道に携わることになるとは、予想していませんでした。強くなりたいと始めた柔道でしたが、中学と高校では指導者に恵まれず、柔道教本などを参考に、殆ど自己流で稽古を行ってきました。それでも、強くなることを諦め切れずに、進んだ大学では、超一流の指導者や仲間と出会い、柔道を学ぶことができました。大学卒業から7~8年経ったころ、知り合いに頼まれ少年柔道指導のお手伝いをするようになり、それから33年、現代に至っています。以前から、一度出てみたいと思っていたのと、知り合いに誘われたのがきっかけとなり、平成25年、若手の指導者も徐々に増えて少し余裕ができたので、マスターズ柔道大会出場を決意しました。永い間競技柔道から遠ざかっていたので、先ずは競技に耐えられる体作りをしようと考えましたが、大きな間違いでした。先ずやるべきことは、トレーニングのできる体作りから始めなければならないことを痛感しました。自分では、トレーニングを積んで出場した10回大会でしたが、あえなく準決勝敗退。それから6年、今年の愛媛県大会において、5回出場の表彰を頂くことができました。今では、マスターズ柔道大会出場が、1年の生活の目標になっており、少年柔道指導の傍ら、中々自分の稽古はできないけれども、少しの減量と食事による健康管理を心がけています。日頃の稽古では、体の衰えを痛感する毎日ですが、大会会場に行くと大先輩諸兄の奮闘を見るにつけ、私などまだまだ若造だと痛感させられることばかりであります。健康管理を兼ねた目標として、今後も大会出場を実現したいと思っています。最後になりましたが、大会運営に携わっていただいている皆様に、心より感謝申し上げます。個人戦で肩を脱臼するも道後温泉で湯治北海道 大内 基樹(M7・66㎏)夏目漱石で有名な街、松山での大会は参加するのが楽しみな大会でした。北海道から四国に行く事自体なかなか大変な事です。大会への参加が第一の目的ですが、旧友と会える事や、妻と一緒に観光する事も楽しみの一つでした。和歌山の大会では団体の決勝戦で逆転負けして準優勝だったので、リベンジすべく、監督として、選手選抜を行ったにもかかわらず、先鋒と大将が都合で欠場になり、二回戦で負けてしまいました。本当に残念でなりませんでした。翌日の個人戦はM7・66㎏級に参戦し、2回戦では前年優勝者に一本勝が出来ました。しかし準決勝戦では、相手の背負い投げに思わず手を着いてしまい「バチ」との音とともに肩を脱臼してしまいました。癖になっていたので、その場で自分で整復して試合を続行しましたが、1対2の旗判定で負けてしまい3位に終わりました。試合後、右手がまったく上がられないので救護室で診てもらったところ、二頭筋断裂の可能性があるので、救急当番病院行きを勧められたのですが、遠方からきたとの理由で、その場でテーピングと三角巾の処置をしてもらいホテルへの帰路につきました。この日から、道後温泉に宿泊したため、ちょうどよい湯治になりました。温泉効果で痛みも和らぎ、妻と一緒に観