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概要

masters2019

22会報 <日本マスターズ柔道> 2019年1月9日パンフレットをみて、正直『びびり』ました。大学や実業団で活躍された同世代の選手たちが多く出場していたからです。試合当日も、面影がある選手を目の前にして、自分からは話かけることもできず、修行の足りなさを実感いたしました。3試合を戦い、最後は肩で息をする状態でしたが、判定でなんとか勝利することができました。勝ったことはもちろん嬉しいことでしたが、それ以上にこの大会を通じて、試合に出場されている選手のみなさんが、心から柔道を楽しんでいる姿勢に感心をいたしました。初めての出場で楽しむ余裕がなかったわたくしは、対戦した選手のみなさんともっとお話すればよかったと帰路で反省いたしました。現在、名古屋市にある米田柔整専門学校で、教員として講義をもちながら、柔道部男子監督を務めております。入学してから初めて柔道衣に袖を通す学生から全国レベルの学生もいる柔道部で、一緒に汗をかいています。それぞれのレベルで柔道に取り組んでいる姿勢にこちらが学ぶことも多くあります。彼らを通じて、柔道は、生涯スポーツとしての価値が十分あることを実感しております。学生の温故知新神奈川県 本多 秀吉11月9 日( 金) 数十年ぶりに講道館の畳の上で二金会の稽古に参加させていただきました。大学時代の試合や月並み試合等々、数々の試合を行った時の事がつい昨日のように思い起こされました。マスターズ柔道の事は、以前から知っていましたので、同年代の人達より多少健康で元気だと思っている事等から、いつか再びやってみたいと思っていたところでした。15年程前より高等学校のボクシング指導に関わっていましたので、しばらく柔道からは離れており、本当に久しぶりの稽古となりました。稽古では、いきなり茨城の羽生先生と乱取りを行い、年齢を超えた素晴らしいパワー・技術に圧倒され、大変良い勉強をさせていただきました。ありがとうございました。大道場正面付近では、大学同期の講道館の松井勲先生と後輩の高橋進先生、山本三四郎先生が古式の形の稽古をしており、柔道着を着ての久しぶりの再会にとても嬉しさを感じ、「帰ってきたな」という感慨に浸る事となりました。元気である以上、また講道館に通い、試合にも是非出場しないといけないと思った一日でした。ところで、長年柔道を行っていく中で常に疑問に思っていたことがあります。それは柔道の「柔」の意味するところは何かということです。「柔能剛制(じゅうよくごうをせいす)」の言葉は、中国の中世の兵法書の「六韜三略(りくとうさんりゃく)」の中に出てきます。様々な解釈がありますが、中国における時代の変遷を頭に入れながら考えると、「剛」というのは、その時の強い国や為政者を指し、いくら強い国や王であっても一時の大洪水によって没してしまう。転じて「剛」を制するのが可能なのは「水」である。と解釈することが出来ると考えられます。また中国には、もともと水に対する思想があり、「老子」の一節には「天下に水より柔弱なるはなし、しかし堅強なるものを攻めるにこれによく勝るものなし」とも表現されています。昨今頻発する地震、大洪水等の天変地異を見るに付け、何となく水が最強である感じはよく分かるような気がします。この中世の兵法書を学んだのが、関口氏心(うじむね)1597~ 1670大和郡山~紀州「関口新心流柔術」であり、それまでの徒手格闘術の角力、和術、体術、腰の廻り、鎧組討等表現がある中で「柔術」という表現を使い始めた人だと言われています。その後、江戸時代に鎖国の中で徒手の格闘術が、各地で広範に深化していく時代を経るわけですが、嘉納先生が各流派の柔術を学んだ時代に、この「柔」の文字を踏まえて「術」を「道」にして「柔道」にし、独自に統合・深化していったと考えることができると思います。「剣道」「弓道」「棒術」「槍術」・・・・・様々な武道の表現が、武具のダイレクトな名詞であるのに、なぜ「柔」の文字を使ったのか、疑問の答えが以上のような歴史的背景の中から解き明かされたように考えられます。ということで「柔」の答えは「水」という結論になるという訳ですが、これはあくまでも私個人の見解でありますので、以降は専門の方々等にご意見を伺いたいところです。〈引用・参考文献〉「古武道の本」BooksEsoterica 第29号2003.9.18 第2刷発行P82~83 学研 他