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概要

masters2017

30会報<日本マスターズ柔道>2017年1月31日第二演武で、講道館「古式の形」演武者取見原道生七段、受木下勝巳五段、進行者・解説者は、矢野賢悟六段が務めました。東京二〇二〇年に向けて、オリンピック試合会場の誘致が、河野俊嗣宮崎県知事を先頭に進められています。宮崎県の海岸線は、トライアスロン、サーフィンの試合場、又は練習場の誘致が期待されています。世界は、皆友達のスローガンのもとに、最近JICAは、宮崎市内で県内在住者国際フェスティバルを開きました。マスターズ柔道の仲間もサーフィンスポットの下見に家族と訪れています。その人は、神奈川県在住の清水勝彦七段です。私は、自己ピーアールと宮崎海岸線の侵食対策への参加とマスターズ柔道参加へのピーアルのため、創立百二十八週年の出身高等学校の同窓会記念冊子に広告を出しました。生涯柔道を目標に、週6回フィットネスジムでトレーニングし、土日は、柔道着を着て同じジムでトレーニングを続ける毎日です。TBSテレビ「水曜日のダウンタウンに出演して」神奈川県森本唯行突然、日本マスターズ柔道協会事務局より電話があり、「テレビ局から、柔道最高齢者対最年少者との柔道の試合をする企画があり、最高齢者を推薦してほしいと頼まれているので出場してほしい」と依頼され、安河内相談役からも「是非出場してほしい」と言われ、受けることにした。十一月四日午後一時に迎えの車が自宅に来たので乗車、一路千葉県松戸市内の総合体育館内の道場に四時過ぎ到着する。撮影とは不便なもので打合せが大変であった。五時過ぎ対戦相手と対面する。五歳の子供で小学一年生と試合をしても負けないらしい。だが大人との試合は始めてらしく、急にお腹が痛いと泣き出してしまう。私は近寄り、孫を相手にする様に「おじいさんと稽古をしよう」と言ってお互いに投げたり投げられたり六本勝負の引き分けとして握手をして別れた。基本通りの正しい技を掛けており、末頼もしい子供であった。柔道着に棟田道場とあり、四国松山より上京したらしく、私も四国愛媛県内子町の出身であり、同じ町の出身らしく余りの偶然にびっくりした。私はワールドマスターズ世界大会に十回出場して、八回優勝、二回準優勝しており、金メダルを持参していたので子供の首に掛けてやることで子供の記念になったと思っている。子供の氏名は佐々木翔希(トキ)君。十五年先を見る。続いて、十一月十日、再度TBSより電話があり、今度は小学五年生で、神奈川県平塚市在住の全国学年別柔道大会で準優勝した真田康志郎君十一歳)との対戦らしい。TBSでは勝負をさせたいらしい。余りにも勝負にこだわるらしい。午後三時頃に車が来て平塚に向かう。平塚総合体育館の柔道場に五時前に到着する。康志郎君は柔道着に着替えてお父さんと練習していた。対戦すると全国二位の実力通り基本に徹した柔道をしており、体力もあり末頼もしい子供であった。聞くところによるとお父さんが東海大学柔道部出身らしく、十年先の活躍が楽しみである。三分の試合で引き分けかと思ったが、勝負がつくまで行うようにとのこと。さすがテレビバラエティー番組である。後はテレビの通りである。注(事務局より):この番組は平成二十八年十二月二十一日(水)二十二時よりTBSテレビ「水曜日のダウンタウン」で放映されました。各種目(陸上、水泳、卓球、ゴルフ、柔道)で最高齢者と最年少者が競うという企画でした。右から二番目が筆者日本マスターズ柔道大会と私茨城県羽生利彦日本マスターズ柔道協会が二〇一七年には「創立十五周年」を迎い、長い歴史の中から柔道大会の運営や「記念誌」を発刊され、改めて会長をはじめ役員先生方のご協力・ご指導に感謝申し上げます。私と柔道の出会いは、中学校には柔道部はなく野球部でキャチャーをやっており、身体には自信があり体力もあったので、高校に入学してからです。柔道の関わりは約半世紀になりますが、インターハイ・国民体育大会等に出場し、「人としての歩むべき道」を高校の先生から学び、充実した意義ある今日を迎えることが出来ています。柔道を通して国有鉄道の鉄道公安職員になり、その後、国有鉄道はJR東日本が民間企業になり、鉄道公安職員は全員が各県の警察職員で、私は茨城県警察官に配転し、すぐに市役所職員で勤務をし、教育委員会・幼稚園の園長を最後に定年退職を迎え、再びJR東日本女子柔道部を作ると、本社の副社長や役員の方々から要請を受け、最初は一人入部してからで現在は十四人になり、JR東日本の柔道場も大崎に出来上がり、施設を始め、監督・コーチやスタッフも揃ってきました。これらは、すべて柔道との関わりであります。二〇一三年に始めて柔道教え子の大木塾の塾長先生から、日本マスターズ柔道大会が講道館で実施する為に出場の要請をうけ、団体戦だけ六十歳代の副将で参加し、